空の色が春の薄いブルーから濃いブルーに変わっている。熱気を帯びた太陽光が大地に降り注ぐのを待ちわびていたのだろう。草陰からは虫たちの様々な喜びの歌声で賑やかだ。
(お腹はまあまあ一杯になったし、欲を言っても始まらない)
チョット考えたが、僕は勝手口を後にし、離れのベランダの前で日向ぼっこをする事にした。
本日は晴れ。小鳥のさえずりも抜群だ。八月に入ってやっと騒々しさから逃れられホッとしている。なぜならこの一か月余り、天気の良い日は決まって周りのどこかの牧場で牧草刈りのトラクターがグォーグォー鳴り響き、オチオチ昼寝も出来なかったからだ。最も馬たちのほぼ一年分の食料を蓄えるのだから、容易な事ではなさそうだ。ここの牧場でも好天の日は厩舎の近くのD型ハウスに、上から下までギッシリになるまで梱包された牧草が次々にトラックに山積みにされ運ばれて来ていたんだ。旦那さんたちはもう全身汗だくになって積み込んでいた。これは牧場の風物詩だ。雨天が続く事もあり、天候相手の事だけに
(人間も大変だなー)
と同情心もわく。それも昨日までの事。嬉しい事に、暖かさが増すに連れて僕の肉体は不思議な変貌をとげた。あれほどまでに僕を苦しめていた鼻水が好天し、何時も詰まりっぱなしの鼻がスースーと通って来たのだ。もちろん痔も治まった。この快適さは生まれて初めてである。スーッと鼻が通るにつれて、頭のモヤモヤがなくなってきた。耳も以前より良くなって来た様な気がする。今までの暗く沈んだ気持ちが消え失せ、心が浮き浮きしてきた。これは四歳にして手にした健康という掛け替えの無い神様からの贈り物?病気から解放される事が、どんなに素晴らしいものか実感するのは眠る時だ。何の苦も無く、澄んだ空気を取り入れながら熟睡出来るのは素晴らしい。思えば生まれてこの方、スムーズに呼吸出来た事などなかった様な気がする。何時も速やかに呼吸出来ず、肩に力を入れてやっと体内に空気を引き込む感じだった。僕は余りの苦しさに、時々生きているのが嫌になったりさえしていた。その状態から解放されたんだ。目覚めた時点で肉体のけだるさはスッカリ解消され満足感でルンルン気分になる。すると、何かすごーく良い事が起こりそうな予感がするんだ。全ての物事に対してプラス思考になるから驚くネ。
母屋は玄関を中心に右手に大きく伸びて部屋はいくつにも別れている。左手は前に張り出し、ベランダ付のワンルームだ。旦那さんたちはそこを『離れ』と言って客間にしていた。ベランダは部屋に合わせて長方形に広くセメントが打たれ、解放されている。僕は元気になるにつれ、こここそ日向ぼっこをするのに絶好の場所だと思う様になった。
本日はゆったりとベランダに身体を横たえる。程よく暖められた床の温もりと、時折り吹く風でウツラウツラと夢心地になってきた。母屋の裏手からまだ奥さんに甘えているボンジュの声がしている。僕は
(もう少し食べたかったナー)
と、先程の昼ご飯のマスを頭に描いていた。勝手口を開け放して料理していた奥さんが少しばかり分けてくれたんだ。余りにも美味しかったから
「もう少し下さい」
と、ボンジュと遠慮がちに頼んだんだ。すると
「贅沢言うんじゃないヨ。家は貧乏なんだからネ」
と、奥さんは嫌味を言いながらも少し追加してくれた。味をしめて
「もっと、もっと下さい!」
と、強く哀願したが、今度は相手にされなかったヨ。その時点で僕は諦めたのサ。ソヨソヨの風が心地よい。僕はダンダン眠くなって来た。そこへ
「猫悪魔だ!気をつけろ!静かに!」
けたたましいスズメの声がした。見上げると虫を咥えた親スズメが母屋の屋根から玄関の軒下の巣に向かって叫んでいる。子育て真っ最中なのだろう。
(バカッタレメガ!僕は今眠たいんだ)
不機嫌にチラッと見上げて睨みつけてやる。スズメには今興味がなかった。なおもスズメは騒いでいたが、だんだんそれも耳に入らなくなった。お嫁さんが欲しいとか、何処かへ旅をしてみたいだとか、そんな大それた事などなくたって、スースーと息が出来、日常生活に倦怠感を感じる事なく過ごせる幸せを何物にも勝るものだと確信している。
小鳥たちのさえずりや虫の音がいつの間にか聞こえなくなった。すると不思議な事に僕はチビタ伯父さんの土地に流れている小川の傍に立っていたんだ。どうした訳か、ミイも元気で僕の傍にいるじゃないか!ヨモブチ、トーマス、トムやボンジュも傍にいて、皆で一心に小川の中を覗き込んでいた。明るい日差しに水がキラキラと輝いている。
「来た来た!」
と、トムが身を乗り出した。
「オー、でかいゾ!」
ヨモブチが大声を上げた。見ると二匹のサケが上って来ている。
「逃がすな!」
僕は思わず声を張り上げていた。
「大丈夫!」
そう言っているのはトーマスだ。
「慌てるな!もう少し浅瀬に来るまで待っていろ!」
僕はピンピンの身体をして皆に指示している。
「ウッワー!オッキイネェ!」
ボンジュが声を張り上げ飛び跳ねた。
「静かに!トムとミイは右側の方から、ボンとニイは左側だ!トーマスは上流を、僕は後ろから行くからナッ!」
ヨモブチは即座に作戦を立てた。皆その通りにして持ち場につき、目をギラギラさせて川の中に入り、上流の浅瀬へ慎重に追い詰めて行く。早くも僕の口の中に唾液が溢れてきた。小川は石に水苔がついてツルツルしている。大回りして受け持った左側を注意深くゆっくりと進む。不器用な僕は途中で何度も滑って転びそうになり、「バシャン!」と音をたてた。その度にヨモブチの厳しい眼差しが僕に向けられた。運良く上流の浅瀬にサケが上って行く。サケに気付かれまいと姿を隠していたトーマスが敏速にサケの行く手をさえぎってサッと川に飛び出した。サケは驚いて魚体の半分を水面から出し、僅かな水とジャリの上をバシャバシャと右に左にと逃げ場を探している。魚体はくすんだピンク模様が浮き出て鼻先は傷つき白く変色していた。ヒレというヒレも裂けて無惨だ。
「ヨシ!今だ!」
僕は皆に声を掛けた。皆同時にサケに向かって飛びつく。バチャバチャバシャ!僕の体は川底の石に嫌という程ぶち当たり耳にも鼻にもしこたま水が入って(ツーン)と後頭部に突き抜ける痛さだ。それでも何としても捕まえようという強固な意志で口を大きく開けてがむしゃらに食らいついた。僕は口元にヌルリとした確かなサケの存在を感じた。だが瞬時にその感触は消え失せる。逃げられたんだ。目で追うまでもなく僕の狙ったサケは死に物狂いで逃げ出し、一気に前方の深みに潜り込んだ。身震いして立ち上がると、そばでボンジュが鼻に水を詰まらせ、やっと立ち上がった。目尻を下げ今にも泣きだしそうな情けない顔だ。だが男の子だ。気を取り直し全身を力一杯振って、水を弾き飛ばしている。鼻からポタポタ水が垂れている。残念!もう一匹は?と見るとヨモブチとトーマスが川の縁へと追い詰め、その後ろにトムとミイがいた。だが、下手をするとまた深みに逃げられてしまうかもしれないゾ!
「トーマス!逃がすな!」
僕は急いで深みの前に仁王立ちになった。すぐさま子供たち三匹も僕に並んだ。案の定、サケは弟と妹をかわして僕らの方に逃げて来るじゃないか!
「ソレッ!」
今度はトムとミイが飛びついたが、二匹ともサケに弾き飛ばされ水の中に尻餅をついている。それでも身体の大きいトムはすぐに体制を整える。
「ヨシッ!今度こそ!」
僕は素早くサケに飛びついた。口の中にほんの僅かサケのシッポが咥えられた。サケは逃げようとして必死に暴れ、僕はまるで叩きのめされている様な衝撃を感じ、川底を幾度となく転げ回っていた。青空と水の底が交互に見える。
「ニイ!しっかり!」
その声と同時にトーマスが駆け寄り、サケの横っ腹に食らいついた。だが、トーマスも弾き飛ばされ、頭から川に突っ込む。それにもめげず素早く立ち上がると狩りに慣れているトーマスはすぐさまサケの喉元に食らいついた。今度はしっかりと。
「ガンバレ!ガンバレ!」
子供たちが大喜びで手を叩いたり飛び跳ねたりしている。
「ガンバッテネ!」
ミイの可愛らしい声がした。
「ヨッシャ!」
ヨモブチが急いでセビレに食らいつく。サケの満身の力に弟の足元もおぼつかなく、二度三度とこけそうになりながらやっとバランスを取っている。だが、さすが力持ちだ。グングンと川岸に引っ張っている。僕は安心して口を離し、フラフラになってヨモブチとトーマスの後について行く。ここでシッポが身軽になったサケは、思いがけず抵抗した。魚体をS字に曲げて一気に身体を弾かせたのだ。さすがのヨモブチも不意をつかれ、水の中につんのめった。顎を目一杯打付け顔を歪めたヨモブチはキレた。目を吊り上げスクッと立ちあがるや否やセビレにガブリと食らいつく。トムも素早く駆け寄りシッポの根元に食らいついた。二匹はトーマスと歩調を合わせ一気に川岸に引きずり上げたのだ。スゴイ力だ!
「ヤッター!猫がサケを捕ったなんて世界中で初めてかも知れないね!」
濡れた毛を気にもせずボンジュとミイははしゃいでいた。岸に上げられ、離されたサケは尚一層暴れ、ビシビシと地面を叩いて転げ回っている。僕らはサケを追い自然に周りに集まった。
「僕らのサケだゾ!」
僕はくたびれていたが、声を張り上げ胸を叩いて見せた。
(どうだ!マスより大きなサケだゾ!)
そう思うと奥さんの顔が浮かんでは消えた。
「オオー!」
皆それを受け、勝どきを上げるとビショビショに身体が濡れているにも関わらずサケに食らいついた。
「ニイ!スジコ食べたら!栄養あるよ!」
トーマスが少々へばっている僕を気遣い腹を裂いてくれた。皆ただモクモクとピンクの肉を頬張っている。幸せそうなそれぞれの顔をグルリと確かめ、僕は生まれて初めてスジコなる物を口にした。透き通ったピンクのスジコは、噛むと口の中でプチプチ弾け、今までのどの食べ物より
(美味い!)
と思った。
「うーん!美味い、美味い!」
しばらくして皆口々に言い始めた。それは満腹になりつつある証拠、腹が膨れた余裕が言わせているのだ。僕は嬉しくて一匹一匹に微笑みかけた。一息ついて又食べている大人たちのそばで、子供たちが歓声を上げ遊び始めた。僕の目に何故かミイだけがトムやボンジュと比べるとずっと小さく見えた。まだ幼さの残った柔らかな毛並みとキャシャな身体でトムやボンジュ相手に戯れている。僕の頭にふと疑問が湧いてきた。だが、一瞬これを口に出して良いものか?迷っていた。もしこれが夢だとしたら、全てが消え失せるだろう。現実だ!と言う思いも働く。頭の片隅でヨモブチもトーマスもトムやミイ、ボンジュは、いつも一緒にいる家族なのだから、夢であろう筈はない!そう、思ってもいる。自問を幾度も繰り返した。グルグル、グルグル。だが何が何だかサッパリ分からない。僕はそっとミイに近づき、愛くるしい大きな瞳を食い入る様に見つめ、小さな声で
「ミイは、天国へ行ったんじゃなかったかな?」
と、問うてみた。するとミイの顔が歪んだ。大きな目は悲しそうに僕を見つめ、瞬時に消えた。トムもボンジュもトーマスも、ヨモブチまでもが姿を消し、あんなに美味しかったサケも食べかけのスジコさえ跡形もない。遠くで誰かの声がした様だった。
「ブチ伯父ちゃーん、・・・・・・・・よ」
もはや僕のぼやけた脳裏には、映像のカケラもなく無彩色の世界が広がっている。
「ブチ伯父ちゃん!トム兄ちゃんが来たんだよ!」
より確かに、より確実に、ボンジュの声だと確信出来た。だが、先程の続きなのだろうか?僕はおもむろに身体を起こすと訝しげに辺りを見回し、川を探してみた。しかし、飛び込んで来たのは、緑一杯の庭や草原だった。再度見回してもサケの上っている川など何処にもない。夢か!意識がだんだんハッキリしてきた。
気がつくと、僕のそばにボンジュが立っている。その後ろに青年がいた。トム?後ろにいるのはミイ?いやそんな筈はない。
「伯父ちゃん、こんにちは!お久しぶりです!今日は、お嫁さんと一緒に来ました」
以前より大人びているとはいえ、紛れもなくトムだった。青年の若いエネルギーがビシビシと伝わって来る。僕は驚いて声を張り上げていた。
「イヤー!トム。よく来た!夢じゃないんだろうネ」
「伯父ちゃん!ホントにホントにトム兄ちゃんだよ!お嫁さんも!」
ボンジュが僕とトムの手を取り、小躍りして幾度もゆすった。よく見るとトムの成長は目覚ましかった。以前より背丈も伸びガッチリとした骨格は勇者を思わせる。今やこの体格ではヨモブチと同等だろう。
「ブチ伯父ちゃん!元気そうになって良かった!」
トムのほころんだ顔の後ろで嫁さんも静かに微笑んでいた。僕らは、ニャンキーハウスの前や物置小屋に上がって語り合った。トムの連れて来たお嫁さんはエマと言ってチビタ伯父さんの土地からさらに山を二つ超えた商店の物置で育った事、チビタ伯父さんの土地は自然が多く、人間に餌をもらわなくてもネズミや鳥を捕って何とか食べていける事などを聞き、僕らもヨモブチが旅立って今の所音信不通になっている事、トーマスが新しく結婚して元気でいる事、又、子供を亡くしたライバが乳母として他所の牧場にやられてしまった事を伝えた。ライバの話を聞くとトムは涙を浮かべ、左から三番目の馬房の前に立ちつくした。
「ブチ伯父ちゃん、ライバが何処へ行ったのか誰もわからないの?」
「ああ、誰にも。カラスどもに頼んだら分かるかも知れないが、奴らに頼むと高くつくからな!」
僕ら兄弟姉妹が幼かった頃、ノン母さんを恋しがっているのを聞きつけたカラスどもが
「奥さんのくれる餌を三日分くれたら行方を捜してやっても良い」
と話を持ち掛けてきたのを思い出していた。あの時はミーコ伯母さんがしっかりと断ってくれたからあれで済んだが、もし話に乗っていたらと思うと改めてゾッとする。
(上手く捜した暁には必ず誰かの命をよこせ!)
と言って来るのがカラスの常套手段なのだと、その怖さをミーコ伯母さんからきつく教えられたのだった。僕もここで生きていく為の知恵と厳しさを子供たちに伝授した。トムは聞き終わると肩を落とし顔を曇らせた。
「そう言う事か。ライバ元気だったら良いけどネ。ミーシャは?伯父ちゃん、ミーシャはどうしているの?」
「ミーシャはなー、始めは寂しがってばかりいたけど、今は今年生まれた仔馬たちと柵越しに結構楽しくやっているよ」
「そう、僕も時々ミーシャと遊んでやっているから大丈夫さ。旦那さんも奥さんも凄く優しくしているしネ」
ボンジュがトムの心配を拭い去るように口を挟んだ。話す事は山ほどあったが時間は容赦なく過ぎていく。別れは瞬く間に訪れ、僕とボンジュはここの牧場境まで見送りに出た。放牧地は青草が伸びて僕らの足元にまとわりつく。目を馳せるとややくぼ地になっているチビタ伯父さんの土地へ続く柏の森も青々と葉が茂っているのがここからでも想像出来た。遥か遠くの山々や左手に連なる海も茜色に染まってきている。再会を約束してトムとエマは連なって去っていく。
「サヨウナラ!」
手を上げる僕のそばでボンジュは千切れるほど手を振っている。夏の夕暮れ、トムたちの行く手に生暖かい風が野山を駆け抜け、海に没する落日は辺りを茜色に染め上げ、見事なまでの夕焼けを造っていた。立ち尽くす僕らの牧場境には、例年通りオニユリの十本程の株が逞しく伸びて蕾を膨らませ、早くも花が五、六個咲いている。何処からともなくクロアゲハチヨウとキアゲハチヨウが蜜を吸いにやって来た。奥さんから可愛がられているせいだろう。何時までも子供っぽさの抜けないボンジュは、喜々として飛びついている。僕ははたと気が付き、慌ててトムに呼びかけた。
「トムー!もう十日もするとお盆だヨー。お盆になったら帰っておいでヨー。一緒にご先祖様を迎えようよー!」
「お盆になったら又来てネー!」
今年初めてお盆を体験するボンジュは、逃げ出したチョウを尻目に理解して言っているのかどうか疑問だが、僕の真似をして大声を上げた。随分遠くまで去った二匹に僕らの言葉が届いたのだろうか?チョット立ち止まり手を振っているのが確認出来た。その二匹がスッカリ見えなくなるまで送ると、僕らは0番地に戻った。ボンジュは余程トムと会えたのが嬉しかったらしく、一人で喜びの声を発し僕の前をスキップして行く。僕も同様に駆け出したいくらいだったが、そうもいかない。いくら元気になったとはいえ、長年の病気続きで肉体は初老の域に達しているのかも知れない。昼間、トムと何時に無く歩き回ったのが堪えたのだ。右後ろ足がしびれている。
オレンジ色の空は薄れ、夕闇が迫ってくる。このスッキリした変化を見ると、明日は間違いなく晴れるだろう。大きく深呼吸すると続けざまに溜息が出て寂しさが募る。トムのお嫁さんのエマに会ったからだ。
(ミイが生きていたら)
今更ながらそんな思いに囚われた。エマと同じくらい成長し、新しい家族を持てたに違いない。悲しい事に夢で会ったミイは死んだ時のままだった。もはやミイの成長は僕が心の中で描くだけだ。あの優しい娘は、年頃になっても僕の事を案じ
(お嫁に行かない!)
と、言い張った事だろう。病弱だった僕に、時には駆け寄り、時には慰めの言葉を掛け、いつも僕の身体を気遣ってくれた。ミイから多くの生きる息吹を貰っていたのだ。(ミイ、ごめんナ)
僕は夢で見たミイを不本意にも心無い一言で消し去ってしまった事への罪悪感を感じている。もし、あの時言葉を掛けずにいたならミイはもっと僕らのそばにいられただろう。消え去る時の悲しそうな眼差しが胸に焼き付いて心が痛む。夢の中とは言えミイは僕らのそばにいたかったのだ。ミイとの生活の端々が走馬灯の様に脳裏をかすめる。ひとりでに涙が溢れ、夜露を含んだ草の上に落ちて行く。あるがままに現実を受け止めて行くのも辛い事だ。
(取り返しのつかない事をしてしまった!)
と、後悔ばかりが先にたった。涙をおさえ、ボンジュに夢でサケを捕った様子を事細かく話し、そこにミイもいた事を告げた。
「そうか、ミイちゃんはやっぱりブチ伯父ちゃんが心配で出て来たんだね」
ボンジュは神妙な声で言った。僕はそれを聞くとまた不覚にも涙が込み上げて来た。ボンジュに気づかれまいとグッと堪えて息を止め、顔を大きく上に向けた。頬をかすめる風が涙を冷たくして行く。
「そうか!ブチ伯父ちゃんはミイちゃんに会えたのかー。いいなー。僕は時々思い出しているけど、ミイちゃんに会った事ないんだー。僕、今ぐらい大きかったらヨモ叔父ちゃんと一緒にトーマス母さんを探しに行けたのにね。そしたらミイちゃんは、もう少しお母さんと長くいられたよネ。そしたらもしかして病気を治せたかも知れないよネ」
ボンジュの次々に発する言葉に僕の胸はなおもギューギューと痛んで息苦しい。
「そうかもしれないネ」
かすれた声で答えるとボンジュは堰を切った様にミイの事を語り出した。
「僕、あの時、ミイちゃんが死んじゃうなんて考えてもいなかったヨ。ミイちゃんはいっつも優しいお姉さんだったものね。僕より大きいし、元気だったものね‥‥。ミイちゃんは・・・・・。ミイちゃんは・・・・」
ボンジュの言葉は涙声でハッキリしなくなった。嗚咽を漏らしながらミイとの様々な出来事を思い出しているのだ。
「ボン!お盆になったらミイに会えるかも知れないぞ」
僕は
(お盆になったらご先祖様が霊体になって天国から会いにくるんだよ)
と、かいつまんで教えた。
「そしたらミイちゃんに会えるの?!」
ボンジュは立ち止まって念を押してくる。頷くとボンジュの顔はパッと明るくなった。
「ボンジュー!ブチニャーン!ごはんよー!」
勝手口で奥さんが呼んでいる。
「ニャーン(ハーイ)!」
ボンジュは弾ける様に駆け出した。若いだけあってクヨクヨしているより食い気が先の様だ。ゆっくり歩く僕の耳に美しく澄んだナイチンゲールの声が聞こえる。グルリと辺りを見回すとユーミスの丘の方からだ。
「ピッポー、ピポピポー。ピッポー、ピポピポー」
いつの間にかカッコウと入れ替わって鳴くようになったのだ。確実に月日の流れを感じ
(一体ヨモブチは何処へ行ってしまったのだろう?)
と、心配になる。弟は十分に一匹でやって行けるのは知っているが、せめて、今住んでいる場所を知らせてほしいものだと思っている。
「ブチニャーン!何しているの?美味しいものみんな、なくなっちゃうヨー!」
再度勝手口から伸び上がって僕を探す奥さんの声がしている。
(僕は奥さんに愛されているんだ!)
何だか変な自信がわいてきて、足早に歩く。
「ブチニャーン、奥さん呼んでるよ!」
「奥さんが呼んでるよー、鼻たれー」
「ブチニャーン、ツンボー、何しているんだー!奥さん呼んでるゾー!」
夕方の飼い葉を食べている筈の馬たちが、奥さんの口真似をしてふざけている。
「ヤレヤレ」
馬たちは親戚の様なもの。僕は怒る気もせず勝手口に向かう。暗くなって来た空に星がキラキラ瞬き出した。トムと会えて今日は本当に良い日だった。