ユーミスの丘

ドラ猫横丁0番地に住む猫たちの愉快な物語

その16 サヨウナラ、ノン母さん 

 一月が去り、二月も半ばになると一歩一歩と春が近づいて来るのが何だか分かる様になって来るんだ。日差しが強く、風のない日はそりゃー、ポカポカと暖かい。でも、いったん低気圧が来ると一変して、やっぱり冬なんだと思い知らされる。
 その日は風が強く、ゾッとする様な寒さだった。奥さんは昼ご飯を届けてくれ、食べている僕らに向かってこう言ったんだ。
「貴方たちって、野生を失っているのかしら?」
 ってネ。僕たちはこんな悪天候の日は穴蔵に入っているのが一番良い!これこそが野生ダ!と自認している。だから全然ピンとこなかった。
「私が小学生の時、実家にいた猫はネェー、嵐の前、つまり天候が崩れる前日には、大暴れしたものヨー。それで『ああ、明日の天気は荒れるんだ』って分かったのに、貴方たちは全然静かなのネェー」
 と、頭を傾げている。おかしな事を言うネェ。奥さんが言うんだからきっとそうなんだろうけれど。今は時代が違うのサ。そんなくだらない事する猫、何処にもいないよ。
 そんな訳で、本日は風を避けて家族全員が揃っていた。悪天候だが子供たちは親と過ごせる喜びではしゃいでいる。これこそが野生でしょう。

 夕方になってやっと風も収まり、点在する人間の住宅に明かりが灯るのを確認出来る様になった。凍てついた大地は風の気まぐれ通り積雪の凹凸を作り出し、雪明りで思いの外遠くまで見渡せる環境を作っている。その時、母屋の勝手口の前に陣取って、僕らより先に「餌をくれ」と声を掛けている猫がいた。
「ニャーン、ニャーン」
(こんなに声が清んでいるのは、たった一匹、僕らの母さんだけだった筈だ!)
僕ら兄妹は瞬時にそう思い、互いの顔を見合わせるや否や駆け出していた。紛れもなく母さんだった。三毛猫の品の良い姿がそこにあった。
「ノン母さん!」
「お母さん!」
僕ら三匹は母を呼びながら駆け寄った。だが母さんは
「グァー、グァー、あっちへ行け!」
と、僕らを大声で怒鳴り、世にも恐ろしい形相をして見せた。
そんな馬鹿な!)
一メートル程手前で僕らは釘付けになった。母さんに対する並々ならぬ僕らの思いが音もなく崩れ始める。母さんは僕ら子供の事をスッカリ忘れてしまったのだろうか?それともわざとそうしているのか、僕らには理解出来なかった。
「お前らには用はない!あっちへ行け!」
 そう言う母さんの目は恐ろしい程吊り上がっている。僕らは思わず後ずさりしていた。
「ニャーン、ニャーン」
母さんはまた母屋の勝手口の前で鳴きだした。ヨモブチとトーマスは口を一文字にしてその場にうずくまっている。一歩前へ出て、僕はもう一度呼んでみた。
「ニャッ!ノン母さん!」
「グォー!グォー!」

母さんはまるで犬かキツネにでも向かっている様なすざましい剣幕で身体を弓なりにし、毛を逆立てた。僕は恐ろしさで後ずさりした。言葉をかける気力も失せた。
 あれから三年は経ったろうか。生まれて半年程の僕らを残して、母さんは去って行ったんだ。
「もうここの家にはいられないよ!子供が余りにも多過ぎるからネ」
 そう言って出て行った母さんだ。幼い僕らは母さん恋しさにどんなに泣いた事か。恋しくて泣いて泣いて、泣き疲れて眠った幼い日のあの満たされなかった思いが、大人になった今も胸の中に脈々と息づいているのだ。けれどその思いは今、悲しく消え去っていく。
 寒さが一段と身に染みてきた。
「ニャーン、ニャーン」
 お袋の美しい声に奥さんが気づいたらしい。急いでドアが開けられた。
「アラッ!ノンちゃんじゃない!ノンちゃん、ノンちゃん!」
 奥さんはサッと抱き上げると頬擦りしている。母さんもしっかり抱きつき甘えていた。
(どうなっているんだろう?
 奥さんは感激のあまり、母さんに高い高いをし、旦那さんを呼んでいる。
「ノンちゃんよ、ノンちゃんが帰って来たのよ!」
 旦那さんが驚いて飛び出して来た。
「ノンちゃんでしょ!めずらしいなぁー、元気だったか?」
 旦那さんは横から手を出して母さんの頭を撫でた。母さんは目を細め、顔を上に向けて気持ち良さそうにしている。間もなく二人は母さんを連れて母屋に消えた。

 僕ら三匹は、勝手口のドアに耳をあて、母さんの様子をうかがっていた。子供たちが不思議そうな顔をしてノソノソとニャンキーハウスから出て来て、台所から漏れる明かりの下にうずくまった。
「あれがミイたちのお祖母ちゃん?」
 ミイはすっかり驚いて目をパチクリさせている。
「そう!あれがお祖母様ですよ!」
 トーマスは不愉快そうに唇を突き出して言った。
「そうか!あれが僕たちのお祖母ちゃんか。ブチ伯父ちゃんが言っていたとうり、スゴーイ美人だネ」
 と、トムは驚いている。ボンジュは皆の様子を見ながら、ただ目だけクリクリさせて興味シンシンの様だ
「ああ、あれこそお前たちのお祖母さんだが、デパートにいるペルシャ猫ちゃんの方がもっと美人かも知れないヨ!」
 ヨモブチは完全に頭に来ている。吐き捨てる様にこう言うと、サッサとハウスヘ戻って行く。
「私も帰るワ!」
 トーマスもヨモブチの後に続いた。二匹とも言葉に表せない程の深い傷を受けた様だ。僕も同様だったが、母さんが以前に比べ、ゲッソリとやせ細っていたのが気になって、もう一度母さんを見てから家へ戻ろうと、ドアのそばに尚もうずくまっていた。子供たちも僕の後ろにしゃがみ込んでいる。
「ああー、寒い!早くお祖母ちゃん、出て来ないかナァ」
 ボンジュが僕に身体をグイグイ擦りつける。にわかに勝手口の隙間から肉やミルクの匂いがしてきた。ヒクヒク鼻孔を動かしゴクリと唾を飲み込むと、トムが呟いた。
「いいナァー、お祖母ちゃんは!」
 この匂いは食べ盛りの子供たちにはあまりにも酷である。
「良い匂い!奥さんボンたちにもくれないかナァ」
 ボンジュの口元が濡れ、ミイも唾を飲み込んでいる。
 また、雪が僕らの頭上にハラハラと落ちて来た。三十分過ぎても四十分過ぎてもノン母さんは出てこなかった。僕も子供たちも、これ以上は風邪をひくだけだ。
「寒いから家に戻ろう!」
 僕は子供たちを促して歩き出した。
「まだ、出て来ないのか!」
トムが一番後ろで振り返り残念そうだ。

 僕らがハウスに戻ると
「ニイ!あんな母さん、ほうっとけヨ!」
 ヨモブチが湯たんぽにくっつき憮然としている。そのそばでトーマスまでもが
「そうよ!自分の生んだ子供も分からなくなっている母親なんて、この世にいる分けないでしょ!最低よ!」
 と、ぶんむくれだ。子供たちは僕らの話に耳を傾けながら、湯たんぽの上に三人で乗っかった。
「そんなに怒るなよ。母さんは僕たち以上に苦労したんじゃないかと思うよ。見たか?物凄く瘦せていたゾ!」
 僕は二匹を諭した。
「うーん、そういえば綺麗なのは変わらないが痩せたナ!」
 ヨモブチも気づいたようだ。
「それとこれとは別でしょ!」
 トーマスは同性だからか手厳しい。僕だって腹が立って不愉快この上ないサ。だがあんなに瘦せ細った母さんを見ると、どんなにひどい事を言われても、とても怒る気にはなれなかった。外では雪が益々強くなって来た。今夜も冷えるナァ。そう思うだけで身体が硬くなってくる。僕も湯たんぽにピッタリくっついた。

 母さんが母屋に入って二時間程経ったろうか。ドアを開く音と奥さんの声がした。「ノンちゃん!帰るの?本当に帰っちゃうの?」
 と奥さんが言っている。それを聞くや否や、僕は走り出していた。後ろから子供たちもついて来た。勝手口の前に行くと、母さんが腹をプックリさせて奥さんに頭を撫でられていた。僕たちを見ると、骨張った身体に力を入れてギロリときつい目を向けた。僕はただ無言で見守っていた。ボンジュが
「お祖母さま」
と、小さな声で言った。母さんはチラッとこちらを見たものの、何も言わなかった。やがて母さんは
「ニャーン、ニャーン」
 と鳴きながら、奥さんの方を何度も何度も振り返り、北の方へ足を向けて行った。横殴りの雪がすぐにも母さんの姿をかき消してしまいそうだ。
「ノンちゃーん!また帰っておいでヨォー」
 奥さんが心配そうに勝手口から身体を伸ばして見送っている。僕はもうジッとしている事が出来ずに駆け出していた。
「ノン母さん!元気でネェ」
「ああ、お前たちも達者でナァ」
 母さんはチラッと振り返って言った。やっぱり母さんは僕らの事を忘れていなかったのだ。胸がジーンとして涙が溢れてきた。そしてもう二度と母さんには会えないような悲しい気持ちで一杯になった。いつの間にか僕の後ろにヨモブチ、トーマス、子供たちもいた。
「ノン母さん!」
「ノン母さーん!」
 ヨモブチとトーマスも目に涙を浮かべながら叫んでいる。母さんはゆっくりと雪原を進む足を止め、振り返った。
「皆、元気でな」
 よく見ると、その瘦せ細った身体と目の下の深い二本の皺が老いを象徴していた。名残惜しくて皆で牧場の端までついて行く。
「もう良い!この辺でサヨナラダ!」
 母さんはきっぱりと言った。
「お祖母ちゃーん、サヨウナラ!」
 子供達が立ち止まった。
「はい、サヨウナラ」
 母さんは足を止め、ペコリと頭を下げると速足になった。
「ノン母さん!」
「ノン母ーさーん!元気でネェー」
 僕ら兄妹は、まるで子供の様に顔をクシャクシャにして、立ち止まって叫んだ。母さんはもう振り返らなかった。スッカリ暗くなった北の小高い丘に向かっている。その姿は雄々しかった。風まじりの雪は粒を大きくして僕らの身体に降り注ぐ。雪が風が母さんの存在をかき消して行く。痩せ細ってしまった母さんの行く手を案じて涙が止まらない。
幸せであって欲しい)
 小さく残った母さんの足跡も間もなく消されてしまうだろう。僕らは姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。やがて、ゆっくりと0番地へ戻り始めた。
「サヨナラ、母さん」
 僕らは幾度も呟いていた。いつしか胸の中に巣くっていた
(お袋が帰って来たら、甘えられる)
 という甘ったれた気持ちが薄らいでいく様だった。