一月が去り、
その日は風が強く、ゾッとする様な寒さだった。奥さんは昼ご飯を届けてくれ、食べている僕らに向かってこう言ったんだ。
「貴方たちって、野生を失っているのかしら?」
ってネ。僕たちはこんな悪天候の日は穴蔵に入っているのが一番良い!
「私が小学生の時、実家にいた猫はネェー、嵐の前、
と、頭を傾げている。おかしな事を言うネェ。奥さんが言うんだからきっとそうなんだろうけれど。今は時代が違うのサ。そんなくだらない事する猫、何処にもいないよ。
そんな訳で、
夕方になってやっと風も収まり、
「ニャーン、ニャーン」
(こんなに声が清んでいるのは、
「ノン母さん!」
「お母さん!」
僕ら三匹は母を呼びながら駆け寄った。だが母さんは
「グァー、グァー、あっちへ行け!」
と、僕らを大声で怒鳴り、世にも恐ろしい形相をして見せた。
(
一メートル程手前で僕らは釘付けになった。母さんに対する並々ならぬ僕らの思いが音もなく崩れ始める。母さんは僕ら子供の事をスッカリ忘れてしまったのだろうか?
「お前らには用はない!あっちへ行け!」
そう言う母さんの目は恐ろしい程吊り上がっている。僕らは思わず後ずさりしていた。
「ニャーン、ニャーン」
母さんはまた母屋の勝手口の前で鳴きだした。ヨモブチとトーマスは口を一文字にしてその場にうずくまっている。一歩前へ出て、僕はもう一度呼んでみた。
「ニャッ!ノン母さん!」
「グォー!グォー!」
あれから三年は経ったろうか。生まれて半年程の僕らを残して、母さんは去って行ったんだ。
「もうここの家にはいられないよ!
そう言って出て行った母さんだ。幼い僕らは母さん恋しさにどんなに泣いた事か。恋しくて泣いて泣いて、泣き疲れて眠った幼い日のあの満たされなかった思いが、
寒さが一段と身に染みてきた。
「ニャーン、ニャーン」
お袋の美しい声に奥さんが気づいたらしい。
「アラッ!ノンちゃんじゃない!ノンちゃん、ノンちゃん!」
奥さんはサッと抱き上げると頬擦りしている。母さんもしっかり抱きつき甘えていた。
(どうなっているんだろう?
奥さんは感激のあまり、母さんに高い高いをし、
「ノンちゃんよ、ノンちゃんが帰って来たのよ!」
旦那さんが驚いて飛び出して来た。
「ノンちゃんでしょ!めずらしいなぁー、元気だったか?」
旦那さんは横から手を出して母さんの頭を撫でた。母さんは目を細め、顔を上に向けて気持ち良さそうにしている。間もなく二人は母さんを連れて母屋に消えた。
僕ら三匹は、勝手口のドアに耳をあて、母さんの様子をうかがっていた。
「あれがミイたちのお祖母ちゃん?」
ミイはすっかり驚いて目をパチクリさせている。
「そう!あれがお祖母様ですよ!」
トーマスは不愉快そうに唇を突き出して言った。
「そうか!あれが僕たちのお祖母ちゃんか。ブチ伯父ちゃんが言っていたとうり、スゴーイ美人だネ」
と、トムは驚いている。ボンジュは皆の様子を見ながら、ただ目だけクリクリさせて興味シンシンの様だ
「ああ、
ヨモブチは完全に頭に来ている。
「私も帰るワ!」
トーマスもヨモブチの後に続いた。
ボンジュが僕に身体をグイグイ擦りつける。
「いいナァー、お祖母ちゃんは!」
この匂いは食べ盛りの子供たちにはあまりにも酷である。
「良い匂い!奥さんボンたちにもくれないかナァ」
ボンジュの口元が濡れ、ミイも唾を飲み込んでいる。
また、雪が僕らの頭上にハラハラと落ちて来た。
「寒いから家に戻ろう!」
僕は子供たちを促して歩き出した。
「まだ、出て来ないのか!」
トムが一番後ろで振り返り残念そうだ。
僕らがハウスに戻ると
「ニイ!あんな母さん、ほうっとけヨ!」
ヨモブチが湯たんぽにくっつき憮然としている。
「そうよ!自分の生んだ子供も分からなくなっている母親なんて、
と、ぶんむくれだ。子供たちは僕らの話に耳を傾けながら、湯たんぽの上に三人で乗っかった。
「そんなに怒るなよ。母さんは僕たち以上に苦労したんじゃないかと思うよ。見たか?
僕は二匹を諭した。
「うーん、そういえば綺麗なのは変わらないが痩せたナ!」
ヨモブチも気づいたようだ。
「それとこれとは別でしょ!」
トーマスは同性だからか手厳しい。僕だって腹が立って不愉快この上ないサ。
母さんが母屋に入って二時間程経ったろうか。
と奥さんが言っている。それを聞くや否や、僕は走り出していた。
「お祖母さま」
と、小さな声で言った。母さんはチラッとこちらを見たものの、何も言わなかった。やがて母さんは
「ニャーン、ニャーン」
と鳴きながら、奥さんの方を何度も何度も振り返り、
「ノンちゃーん!また帰っておいでヨォー」
奥さんが心配そうに勝手口から身体を伸ばして見送
「ノン母さん!元気でネェ」
「ああ、お前たちも達者でナァ」
母さんはチラッと振り返って言った。やっぱり母さんは僕らの事を忘れていなかったのだ。胸がジーンとして涙が溢れてきた。
「ノン母さん!」
「ノン母さーん!」
ヨモブチとトーマスも目に涙を浮かべながら叫んでいる。母さんはゆっくりと雪原を進む足を止め、振り返った。
「皆、元気でな」
よく見ると、
「もう良い!この辺でサヨナラダ!」
母さんはきっぱりと言った。
「お祖母ちゃーん、サヨウナラ!」
子供達が立ち止まった。
「はい、サヨウナラ」
母さんは足を止め、ペコリと頭を下げると速足になった。
「ノン母さん!」
「ノン母ーさーん!元気でネェー」
僕ら兄妹は、まるで子供の様に顔をクシャクシャにして、立ち止まって叫んだ。母さんはもう振り返らなかった。
(
小さく残った母さんの足跡も間もなく消されてしまうだろう。僕らは姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。やがて、
「サヨナラ、母さん」
僕らは幾度も呟いていた。いつしか胸の中に巣くっていた
(お袋が帰って来たら、甘えられる)
という甘ったれた気持ちが薄らいでいく様だった。