待ちに待った本物の春が来て、母屋の庭の桜が21個咲いた。ここの桜ときたら僕が生まれる前から植わっているのに、今年もこれだけしか咲かない。昨年は12個で、その前は1個だったよ。きっと、余りの寒さに木が縮み上がって、ほんの少しずつしか伸びられないのサ。それでもここの旦那さんと奥さんは、この桜の木の下で花見をするんだ。その時は僕たちにもご馳走を少し分けてくれる。今年の花見はまだしていないので、僕はそれが気になって落ち着けないでいる。早くしないと花が散ってしまうからね。
ミイが死んでしまってから、家族の分裂が始まった。ヨモブチは嫁さんを探して中々帰ってこないし、トムもすっかり大人になって冒険に余念がない。僕はその姿を見て、もうすぐ男同士の戦いが始まる予感がしている。それは、僕とではない。弟のヨモブチとトムとの間だ。僕とヨモブチの場合は、お袋に幼くして捨てられたようなものだから、否応なしに協力しなければ外敵に立ち向かう事が出来なかった。その上僕は今でも一人前の健康な大人と認められていないが為に、兄弟の別離はあり得なかったのだ。だが、トムもボンジュも健康な大人として成人した折には、必ず一度は生死を掛ける程の戦いが待っている。ヨモブチとトムは、近いうちに必ず別離を掛けた戦いをするだろう。敗者がこの0番地を去るか、勝者を立ててしもべとして生きるのか、二つに一つである。敗者でも誇り高く生きようとする者は0番地を去るだろう。男とはそういうものなのだ。その点女はほとんどの場合、喧嘩もせず共存出来る平和的存在だ。女は子供を産み、子別れするが、女同士は共存出来るのである。家族とは、創造と破壊の繰り返しと言って良い。家族の変化を望まないとすれば、子供は女の子が良い。平和は女がもたらすのだから。いずれにせよ、この一大事をトムもボンジュもまだ分かっていない。
ボンジュはトムが遊び相手をしてくれなくなったので、いつもつまらなそうにして旦那さんや奥さんにまとわりついている。だが、農繫期を迎えた二人は以前程遊び相手をしてくれない。ゆえに仕方なく僕のそばにいる事が多くなった。
午後になって僕らのハウスの前を旦那さんと奥さんが慌ただしく行ったり来たりしている。僕には思い当たる事が一つあって、そばにいるボンジュに声を掛けた。
「ボンジュ!また馬の赤ちゃんが生まれたんだ。見に行こう!」
「うん!」
ボンジュにとって生まれたての赤ちゃんを見るのは三度目であった。0番地に続く厩舎に向かうとキクイチオー婆ちゃんのそばに旦那さんたちがいた。そっと近づくと案の定、母馬と同系色の栗毛色の仔馬が旦那さんからへその緒に赤チンを塗られながらもオッパイをチューチュー飲んでいる。馬房の前の隅で見ていると
「伯父ちゃん、馬の赤ちゃんって本当におっきいんだよネエ!」
ボンジュは目をクリクリさせている。(そうだよ)と頷いている僕らに気づいたキクイチオー婆ちゃんは
「オヤ、ニャンキー!私の子供をみてごらんよ。どうだい?私の子供が一番立派だろう!」
と目尻を下げ、鼻先をダラリとさせて言った。
「ああ、キクイチオー婆ちゃんのが一番立派だネ!」
と言ってやると、キクイチオー婆ちゃんは満足げに大きく頷いて、飼い葉を食べ始めた。毎年の事だが、仔馬を出産すると決まってどの母馬も僕に問うていた。
(私の仔が一番だろう!?)
てね。その度に
(あんたのが一番サ)
と言う事にしていた。皆を傷つけない言い方はこれしかない。だけど誰が何と言おうとキクイチオー婆ちゃんの仔が一番立派だ。骨格といい全体のバランスといい、惚れ惚れする姿だ。旦那さんたちは(この馬が一番走る馬を出す)と言って出産の度に大喜びしている。先ずは良かった。今日は朝から天気が良いのに、春風は僕の鼻炎に悪いらしく、クシャミばかり出てどうしようもない。そんな僕から離れてボンジュは飛び交うヒバリを追いかけ放牧場へ駆けて行った。僕はクシャミと鼻詰まりと涙目で頭はボーッとしている。憂鬱になるよ、こんな時は。二、三日前までは随分と体調が良かったのに。クシャミをしながら花畑の風の当たらない場所を選んでうずくまっていると、ポカポカして少し気持が良い。僕の目の前に黄色いタンポポが一本咲いていた。青空と緑の草原がその後ろに連なっている。ヒバリもスズメも忙しそうだ。
奥さんが仕事帰りに母屋の前の花畑を散策にやって来た。うずくまっている僕を見つけると顔を覗き込んで言った。
「ブチニャン、調子が悪いの?」
僕はおもむろに顔を上げて答えた。
「ニャッ、ニャッ、苦しくて苦しくて」
「その気持ち、よーく分かるよ。私もこの六年余り、お前さんと同じ状態だからネ。冬も辛いけど春先も同じように辛いのよネ。まあ、自分だけだなんて気を落とさないでがんばって!」
奥さんはそう言って僕を慰め、頭をコロコロ撫でてくれた。よく見ると奥さんも涙目で、立て続けにクシャミをしている。母屋に消える奥さんを見送りながら普段のしぐさを思い出していた。そう言えば奥さんは僕と同じだった。いつも鼻をグシュグシュさせていたし、目だって涙目でうるみっぱなしでショボショボしていた。そしてしょっちゅう鼻をチーンと嚙んでいる。本当だ!奥さんだって同じ苦しみに耐えていたのだ。病気仲間だったんだ。そんな状態なのに冬の間中、湯タンポを入れてくれたりご飯を作ってくれていたんだ。
(ありがとう)
僕は思わず母屋に向かってペコリと頭を下げていた。
「何を変な事してるんだい?」
振り返るとヨモブチがいた。しばらくぶりに会うが、やけに気取っているのが目に付く。毛はもちろんピカピカだし、ヒゲが一本一本丁寧に伸ばしているのが察せられた。歩き方ときたら、思いっきり腹を引っ込めてスタスタとリズムカルだ。
「あー、ヨモだったのか?お帰り。身体の調子が悪くてまいっているのサ」
「そうか、春風は鼻炎に良くないからな!」
ヨモブチは心配そうに顔を曇らせ僕のそばに座り込んだ。その姿を見ながら僕はイイフリコイテる(格好付けている)なと思った。
「ペルシャ猫ちゃんは見つかったかい?」
僕の問いにヨモブチはがっくりと肩を落とした。
「そんな猫、どこにもいなかったヨ。奥さんが言っていたデパートに行かなくちゃ会えないんだ!この辺を探し回ったけど、いないって皆言ってるもの」
「そうか、やっぱりデパートにしかいないのか?」
クシャミをしながら多少なりとも同情した。
「そうなんだヨ!あーあ、ニイが人間の言葉話せたら奥さんにデパートの事頼んで貰えるのに!残念だよ全く!」
そう言って僕の顔をジッと見ていたが、やがて諦めたのか、ボンジュが遊んでいる放牧地へ向かって行った。
夕方になって、旦那さんと奥さんがいつも通り馬たちを厩舎に入れ、母屋に戻って行くのを見定めた僕は急いで後を追った。勝手口の前で叫ぶ。
「ニャ、ニャ、ニヤ、ご飯くれ!」
奥さんはすぐカツオ節入りのご飯を僕の前に置いてくれた。そしてドアをドンドコ叩いて皆を呼んだ。
「ご飯よー。ご飯だよー」
ヨモブチとボンジュ、トムが放牧地や厩舎の裏から駆けてきた。奥さんは僕ら一匹一匹を確かめるように見つめて
「アラッ、今日もトーマスが居ないのネ」
そう言い残して母屋に消えた。僕はその後ろ姿に向かって
「妹は心配ないヨー。一匹でも生きて行ける強い猫なんだヨー」
と叫んでいた。
「あー、皆で食べるご飯はやっぱりうまいネ」
ボンジュはまだ子供なのだ。嬉しそうに皆の顔を見回しながら食べている。僕は無言でヨモブチとトムの様子を見ていた。何時戦いが始まっても不思議ではないからだ。その時を想像するとゾッとした。僕は争いを好まない。
食べ終わると
「ブチ伯父ちゃん、僕大人になったからお嫁さん捜しの旅に出ていい?」
とトムが言った。ヨモブチは驚いてまじまじと見つめ、口を開いた。
「大丈夫か?」
「ヨモ叔父ちゃん、大丈夫だよ!僕はもう大人だよ!」
トムは胸を張って言った。
「そうか、それならそうしなさい。ここは一匹で生きて行けない時に帰って来る所なんだよ。思いっきり自分自身を試して見るが良いサ」
僕は一抹の寂しさを隠して言った。ボンジュは食べるのを止め、僕の後ろにへばりつき駄々をこねた。
「嫌だー!トムちゃんと別れるの!」
下を向いて涙目になったボンジュの言葉を無視してヨモブチが言った。
「トム、よく決心した。君は本当に利口な猫だよ。君と僕はいずれ戦って勝敗を決めなければならない運命にあったが、これでそんな必要は無くなったヨ。その時は僕が家を出るか君が出るか、ハッキリしなければならなかったが、僕としてはブチニイの事が気掛かりで仕方がなかったんだ。なにせ僕らは兄弟だからネ」
ヨモブチは神妙な顔をして僕をチラッと見るとまた続けた。
「もし、一匹で生きて行けなくなったらまた戻って来るがよかろう。前々からトーマスとも話していたんだが、君にはチビタ伯父さんの土地をやろうと思っていた所だ。あそこへは何度かお母さんと行って知っているだろう?」
ヨモブチのトムに対する言葉遣いは、一人前の大人と認めての話し方に変わっていた。
「ありがとうヨモ叔父ちゃん。チビタ伯父さんの土地はもう何度も行っているから大体の事は知っているよ。すごい所なんだ!」
トムは喜んでいる。それを見てボンジュは僕の後ろで大声を出して泣き出した。
「ボン!僕、また遊びに来るよヨ!」
凛として旅立を決めた若者の姿がそこにあった。ボンジュは涙で一杯の目を向け
「本当?」
と尋ねた。トムは大きく頷いてそれに答えた。
「ボン、大人になるって事は、出会いもあるが別れも沢山あるんだゾ!」
ヨモブチはボンジュにそう言い聞かせ、頭をペロリとなめてやっている。
「ボンにはまだヨモ叔父ちゃんもブチ伯父ちゃんもいるだろう」
僕もボンジュの肩を抱えて諭した。軽く頷くボンジュが可哀想だったが、自立して旅立つ者は笑顔で送り出したい。
頬を伝う風は夕方になるとひんやりして来た。だが明日の天気を約束して一番星がハッキリと姿を現し、空が茜色から濃紺色に変わるのも時間の問題だ。
知らず知らず皆で厩舎のそばに集まり、トムの旅立つ西の方角を見つめていた。前方には海、囲むように山並みが連なり、かすかにザブーンと波の音が聞こえている。
「もう、行くネ」
トムは僕らを残して西へ西へと駆けて行った。
「ゴンタやキンコに気をつけるんだゾー。橋を渡る時は、車に気をつけるんだゾー」
僕とヨモブチは心配で、声を揃えて呼びかけ注意した。
「ハーイ!気をつけるからネー」
振り返り手を振るトムの後ろを名残惜しそうにボンジュが追いかけて行った。本日は5月22日。トムの旅立ちは忘れられない人生の一頁だ。その二匹を目で追いながら
「ボンは、まだ小さいからナー」
とヨモブチもどこか淋しそうに呟いている。僕も同じ気持ちだった。トムもミイもトーマスの子供とはいえ、僕はその母親以上にこの子たちと過ごす時間が長かった。授乳こそ出来ない相談だが、育てたのは僕と言っても過言ではあるまい。子別れとはこんなに辛いものかと改めて思い知らされた。ノン母さんの気持が少し分かるような気がした。だが、それ以上にヨモブチの言葉が僕の心を潤していた。
(ブチニイの事が気掛かりだった。)
と言った事だ。小さくてまだ獲物の一つも捕れなかった時、親のない子は悲しいものだった。ネズミも小鳥も僕らの口に入る事はなかったのだ。奥さんは今と同じような餌をくれていたが、育ち盛りの僕らには栄養不足だった。それを補うために外灯の下、兄妹四匹でバッタやコオロギを捕って食べていたあの頃の事が、昨日のように思い出される。やはり僕は病弱だった。そんな僕に三匹はいつもコオロギの足とか頭を分けてくれていた。冬は今みたいに湯タンポもなかったから、奥さんの作ってくれた段ボール箱に四匹で折り重なって眠った。あの時のキツネの恐怖と凍えるような寒さは今も忘れる事が出来ない。
「ボンももう少し大きくなったら、世の中の事分かると思うよ」
ヨモブチは大きな溜息を一つついた。
「皆一匹一匹で頑張って自分の生き方を見つけなければナ」
僕はそう言いながら、一匹では生きた事のない自分を思って悲しくなった。トムを羨ましいと思った。虚しい気持ちで既に見えなくなったトムの姿を探していると
「ニイ!あんまり気を落とすなよ。まだボンもいるし、僕だってトーマスだって時々帰って来るじゃないか」
ヨモブチの慰めを受けながら
(ありがとう)
と、心の中で呟いていた。
「ブチ伯父ちゃん、もう暗くなってきたから早く家に帰ろう!」
いつの間にか戻って来たボンジュが僕のお尻を押した。夜露に濡れた草を踏み、0番地へ向かう。それを見て安心したのかヨモブチは
「じゃ!」
と敬礼すると家には戻らず、母屋の前の花畑を横切って東隣へ向かって行った。